金海燕
【摘 要】言語は國の精神と文化を反映するものである。言語は文化であり、言葉の中に文化がある。文學作品である「故郷」という文章の翻訳問題は日本でいろいろな議論がある。一中國學者の目線でみる魯迅の「故郷」作品の日本語翻訳は文學的または言語學的な面でのその素晴らしさを存分展示してくれたと感じる。ここでは魯迅の「故郷」という作品における二つの問題點について論じた。以下、私は文學作品「故郷」の翻訳の問題と日本の國語科教材における「故郷」のあり方について、考察してきた。
【關鍵詞】故郷;翻訳;言語文化;文學作品
どの國においても文學作品の學習は言語學習をもとにして成り立つものだと考える。日本の中學校教材においての文學的作品「故郷」は中國近代においての魯迅先生の筆によるもので、約20年あまり學校の教科書に載せていた。よって、翻訳文としてのいろいろな見解もあり、以下は言語教育と言語學習の角度から翻訳問題について論じて行きたい。
1 翻訳についての分析と考察
1.1 翻訳作品――「故郷」
現在,魯迅の「故郷」は日本の中學校の教科書(5社)にすべて載せられている。翻訳者は竹內好訳が代表的であるが、この以外にも増田渉、松枝茂夫、佐藤春夫、駒田信二、丸山昇などの訳がある。當然ながら、その日本語の翻訳表現にはそれぞれ特徴がある。これらの翻訳者による翻訳の過程においては、語學學習の原則に基づく「厳密な訳読」=直訳·硬訳と文學作品の「翻訳」(翻訳自體が文學作品である場合もある)①との相違が存在する。國語科教育は言語教育が基本であるため、國語科授業で「故郷」は翻訳作品としてとらえなければならないと思われる。その理由は二點ある。
ア.時代背景と風土、文化ともに知らない日本の學習者は、言葉表現に誤解を生じて、間違った読みになる可能性がある。
イ.翻訳者により、翻訳がさまざまであり、「語句」の表現の相違點に注意すべきである。
以上二點の理由は、もっとも根本的な問題であり、注意すべきところであると考える。
1.2 翻訳の相違(*は原文である。)
①*我冒著嚴寒,回到相隔二十余里,別了二十余年的故鄉去。
竹內好訳:厳しい寒さのなかを、二千里のはてから、分かれて二十年にもなる故郷へ、私は帰った。
増田渉訳:私は厳しい寒さを冒して、二千里も隔たった、別れて二十年になる故郷に帰った。
ポイント:
この冒頭文における竹內好訳と増田渉訳の翻訳の違いが明らかであるが、ここで注目したいのは、助詞「へ」と「に」の使い方である。このほかにも駒田信二訳と松枝茂夫訳も竹內好訳と同様に、「へ」を使った。文中ではどちらも「帰著點」を表しているが、翻訳者にとっては何かの理由があるのではないと思う。また、これらを國語科授業で文法知識として學習指導を行うことが當然必要であると考える。
②*……正在說明這老屋難免易主的原因。
竹內好訳:この古い家が持ち主を変えるほかなかった理由を説き明かし顔である。
駒田信二訳:この古い家が持主を変えなければならぬ理由をよく物語っていた。
松枝茂夫·和田武司訳:この古い家が代わりせざるを得なくなった原因を、いかにもよく語っていた。
ポイント:
原文にある「正在說明」の「在」は動作の継続·持続の意味を表す副詞である。ここでは後ろに來る「説明」を修辭する語である。しかし、翻訳における「物語っていた」「語っていた」は過去型であるため、原文に完全に合ってない。また、竹內好訳は直訳と隨分違って、文學作品の意訳になっていることが明らかである。
③*沒有系裙,張著兩腳……
竹內好訳:スカートをはかないズボン姿で足を開いて立ったところ……
駒田信二訳:スカートなしで、両足をひろげていて……
松枝茂夫·和田武司訳:スカートをはかないで、両足をひろげて立っている……
ポイント:
「系裙」での「系」は動詞であり、日本語で「つける」の意味なので、「裙」はここで「スカート」ではなく、「前掛け」(圍裙)である。これは中國の當時の女性が働く時、つける前掛けである。となると、これは完全に日本の訳者の誤訳になるだろう。光村教科書では竹內好訳の「スカートをはかないズボン姿」を「當時中國の女性の一般的な服裝であった。労働のときなどはスカートをはかないズボン姿になった。」と解釈している。よって、日本の學習者は何も知らないまま、違った読みに生じてしまうのではないかと思われる。
④*我想到希望,忽然害怕起來了。
竹內好訳:希望という考えが浮かんだので、わたしはどきっとした。
駒田信二訳:希望ということを考えたとき、突然わたしはおそろしくなってきた。
松枝茂夫·和田武司訳:希望ということに思いいたったとき、突然、私はドキッとした。
ポイント:
「害怕」は「怖い」と訳する。「どきっと」を日本大辭林で調べてみると「驚きや恐れ·期待などのために動悸のするさま」と解釈し、広辭苑では「驚いて一瞬心臓が強く打つように感ずるさま」と解釈している。「怖い」は広辭苑でみると「①恐ろしい。悪い結果が予想され、近寄りたくない。②人知でははかりがたい、すぐれた力がある。驚くべきである。」したがって、「怖い」と「ドキッと」は違う表現に使われる言葉であると思われると同時に、翻訳の中で原文とこんなに違った訳をなされてよいかと疑問に殘った。
1.3 日本の中學校の國語科教材における「故郷」のあり方
文學作品を読み、文學的に深く理解しようとするならば、まず語學的に精読ことを心がけなければならないと竹田は言った。しかし、私が見てきた日本の國語科授業の中で、これが弱點であると思われる。すなわち、文學作品の特有の言語魅力を學習者に十分習得させてないことである。日本における「故郷」は文學作品である前に、翻訳作品である。これは日本における國語科教材研究において、まずはっきりしなければならないものだと考える。しかし、日本における過去10年以來の「故郷」実踐(文獻)と現在の実際の中學校での実踐でみると、「言語教育」としての「故郷」の実踐授業が極めて少ない。いわば「文學的」と「語學的」が有効に統一した授業が少ない。文學作品の読む力を高めるために、いかに學習者の思考力を伸ばすかに定著する一方、言語能力を高めることも同様に重要なことであると考える。いわばここには「文化」という要素も入っていて、これは最も無視できないあるいは無視してはいけない重要な部分であると考える。文章の中の「銀項圈」とか「豆腐西施」とかはその國の文化というものと深くかかわっているもので、作品理解と緊密なかかわりがあるので、重視しなければならないところであるとずっと考える。
2 まとめ
「故郷」の日本語訳は、文庫本を含めて多彩であり、翻訳者によって、語句の表現が違い、原語ではなく訳語の內包する意味に規制されているし、教科書ことに用語表記に獨自の方針があり、漢字の変更や句読點の付加削除など多くの訂正も存在すると佐々木浩が指摘した。言うとおりに、現在の日本の中學校國語科教科書に全てに載っている竹內好訳そのものも問題點がある。日本における魯迅の「故郷」は竹內好の「故郷」である言い方もある。たとえば、「豆腐西施」の訳において、竹內好は「豆腐屋小町」と、駒田信二訳は「豆腐美人」と訳した。二つとも美人のことをあらわしているが、明らかに竹內好訳の表現が技巧的であり、日本人の認知に近い訳になっている。すなわち意訳である。
日本における「故郷」の翻訳問題についてはまだたくさんの疑問が殘った。しかし、「故郷」が國語科教科書に載せられた同時に、作品はすでに、「翻訳·文學·教材」の性質を有している。よって、それらの特徴から「文學作品と言語教育」の有効な統一を図って、學習者たちに學ばせることがさらに重要なことになると考える。
【參考文獻】
[1]駒田信二.「故郷」.『世界文學全集75』[M].集英社.
[2]松枝茂夫·和田武司.「故郷」.『世界文學全集35』[M].講談社.
[3]柴田義松.『新しい國語科學習指導法』[M].學文社,2005.
[4]梅棹忠夫,金田一春彥.『日本語大辭典』[M].講談社,1995.
[5]森田良行.『日本人の発想と日本語の表現』[M].中央公論社,1998.
注釋:
①竹田晃.「「文學作品と言語教育」――魯迅「故郷」をモデルケースとして」[J].『明海大學大學院応用言語研究セミナー』,2004:44.
[責任編輯:楊玉潔]